はい、チーズ!

最近たまに、業務の一環として写真を撮られる。

もちろんポーズを決めて格好つけるようなモノじゃない。プロジェクトメンバー一覧へ貼付される顔写真だったり、キックオフと称される飲み会の様子だったり、マイルストーン到達の記念写真だったり。たいてい社内ポータルで限定公開される。

たぶん異を唱えれば編集して取り除くなり塗り潰すなりしてくれるのだろうとは思うが、それはそれで面倒なので放っておいている。目の前で写真を指差し「これは君かい?」と訪ねられても「いいえ?」と流すくらいの勢いで。

ところで、そもそも写真を共有する理由として「顔が見えた方が親近感も湧いて仕事がし易くなるだろう」という説明を受けたコトがある。どうだろう。逆に云うと、顔を思い浮かべられなければ相手を血の通った人間だと感じられないのだろうか。外見を知らずに書いた文章は氷のように冷たく、知って書いたソレは春の日差しのように温かいとでも云うのか。お前は汲み置きの水に「おはよう」「今日も綺麗だね」「ありがとう」と声をかけるクチか。そうなら七花ととがめのきゅんキャラセットを送るので是非に彼らをわたしだと思って並べてくれ。……狙いは化物語だったんだよ……。

自分が変われば組織も変わるになかなか面白い話が載っていた。とある大企業の役員の言らしい。


私はこれまで、部下というのは仕事の成果を上げるための道具のように考えていました。鞭打つことで成果を出すというのが私のやり方でした。これはどう見ても、部下を人間として扱っているとは思えません。農耕馬のような扱いをして働かせていたにすぎなかったと認識しました。

ねーよと云いたくなるが、現実にはこちらの方が主流じゃないか。

しかし相手が人間かどうかは本質ではなく、ソレがナニだったとしても感情を持っていて意思の伝達手段があり何らかの付き合いがあるなら大半のケースにおいて下手は打たない方が善いだろ、と思う、思うのだが、わたし自身の行いについては棚に上げさせてもらおう。それはもう、欠片ひとつ残さずに、だ!

……ええと、まぁ、つまり顔だけ見えてても仕方がなくて、 plain text のコミュニケーションだけでも懇意に成れるし、同じ部屋でお互いを遮るモノは空気ぐらいしか無い日々を過ごしても軋轢を生ずるのだから下らないなとレンズを向けられるたび感じるのである。「俺が顔とか見てみたいけど、出張や旅行は無理だから写真を送れ」と云われた方が、まだ少しだけ好ましい。