無駄になったら悲しい?

とある事情でわたしの作った機能はリリースされないコトになった。不具合があったとか、そういう理由では別にない。高レベルな政治的判断により機能自体が不要になっただけである。

その話になると、まず「残念でしたね」と云われる。

わたしには、それが不思議である。全くもって残念ではない。それどころか嬉しいくらいだ。わたしが欧米人であったら大袈裟なジェスチャーで神に感謝の祈りを捧げていただろう。

何故ならバグを産む要因がひとつ減るからである。成果物が無ければ、それに起因する問題も発生しない。手を動かすからミスをする。手なんて動かさないのが最も望ましい。

もちろんわたし自身が原因で使えるモノとならなかったのならば、それはつらい。とてもつらい。

ちなみにリリース予定だった機能が無くなることに因る金銭的なアレやソレは考えないコトとする。わたし個人の契約に直接は関わらないはずなので。たぶん。

尤も、コレを話題にした際には際に外部からはソレくらいしかかける言葉が無いことも想像に難くない。仲が良いわけでも興味があるわけでもない、ただの使い捨ての作業員に対して世間話として無難な表現を選ぶならば、ソレが適切なのだろう。

しかし、作業結果が使われないコトを残念だと思う方々が、居るとしたら、それはどういう思考回路に因るのだろう。自分の成果物に愛着があるのだろうか。

もしそうであるのならば、きっとそれは好いことなのだろうな。