わたしにとっての“アイテム課金”

アクセル・ワールドの黒雪姫といいモバマスの渋谷凜や黒川千秋といい黒髪ストレートロングがクリティカルヒットな今日この頃、皆さま如何お過ごしだろうか。

いわゆるソーシャルゲームも含むオンラインゲーム全般に対してだと思うのだけど、稀に「所詮サーバの中に存在するのみで、サービス終了と共に消滅するデータへ金を使うなんて信じられない」といった感じの主張を耳にするコトがある。そんな覚えが微かにあったような……って頻度で。アイテム課金への、というかそういうアイテムを購入する層への悪評だね。

その表現には違和感があった。自分の手元に残らない、所有できないモノなど意味がないというのであれば、いったいどんなサービスならば認めるというのか。コンビニエンスストアで商品をビニール袋へ詰めてくれなくてもクレームをつけるなよ。食事だって生きるに十分な栄養が摂れれば十分なはずで料理の味がどうこう云うなよ。そう感じた。

そして、つまりはそこの認識が違っているのかな、と考えた。

名にこそアイテムと付いているものの、オンラインゲームにおいてソレは一つのサービスに過ぎず金銭の対価に一時の快楽を供していて、その体験を“アイテム”と呼ぶのだ。楽しい時間を延ばしたり、仲間に見せびらかしたり、強さを誇ったり、造形を愛でたり。決して「アイテムを売っている」わけではない、とわたしは思う。

冒頭で述べたようなヒトビトは、“アイテム”を消滅が運命づけられているバイナリデータでしかないと思っているのではなかろうか。炎天下のグラウンドにひとつだけ置かれたアイスキューブのような。降り注ぐ雨に打たれるベンチへ塗り付けられて間もない水性塗料のような。しかも、誰の目にも触れない処の。ならば、ソレの購入は諭吉を溝に捨てるコトと等価かもしれない。

どうなのだろう。そういう考え方で、アイテム課金を否定しているのだろうか。……全くの間違いとは云えないが、しかし、もしそうなら、残念だ。

蛇足。「システム構築を知らないため作業の重さが解らず、アイテムの増産に簡単でコストも掛からないイメージを抱いているため価値がほとんどないと思っているのでは」という見解は、飽くまでも“アイテム”がサービスだとは認識していて、ただしその内容と値段が釣り合わないとされたケースだろう。今回の焦点は“アイテム”ではなく値打ちに対する判断の立脚地である。それはまた、別なお話。